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  Short Story

聖書に関するいろいろなお話

最後の五分
第三の部分−The Third Part
It will be forever
Christ vs Religion
クリスマスってじつは聖書にないってホント?

  ある一人の若い死刑囚がいました。死刑執行当日、刑場に到着したその死刑囚に、最後の5分が与えられました。28年間生きてきたこの死刑囚に与えられた最後の5分は、短いけれどもとても貴重な時間でした

         「最後の5分をどう使おうか?」

  その死刑囚は悩んだ末に決心しました。自分を知っているすべての人々に対して、別れの挨拶と祈りのために2分、その日まで生かしてくださった神に対して感謝をささげて、他の死刑囚たちへ一言ずつ別れの挨拶をするために2分、残りの1分は、目に見える自然の美しさに感謝し、この地での最後の瞬間まで立たせてくれたことに感謝をしようと決めました。

  流れる涙をのみながら、家族や友人たちをしばし思い、別れの挨拶と祈りをして、2分が過ぎてしまいました。

  そして、自分自身についてふり返ろうとした瞬間、「あぁ! もう3分したら私の人生も終わりなのか…」と思うやいなや、目の前が真っ暗になりました。

  過ぎてしまった28年間という月日を、宝石のようにして大事に過ごせなかったことに、とても後悔しました。「あぁ…、もう一度人生をやり直すことができたら…」と後悔の涙を流した瞬間、奇跡的に、死刑執行中止の命令がくだされ、間一髪、命が助かりました。九死に一生のその出来事の後、彼は死刑執行直前に残された5分間を思い出しながら、生涯、時間の貴重さを感じながら生きつつ、一日一日、瞬間瞬間を、最後の瞬間のように大事に、一生懸命生きました。その結果、彼は「罪と罰」、「カラマーゾフの兄弟」、「未成年」など、数多くの名作を発表し、トルストイと比較されるほどの世界の文豪へと名を残しました。その死刑囚は、まさに”ドストエフスキー”でした

  あなたにとっても、今がとても重要な瞬間です。今、イエス・キリストをあなたの救い主、永遠の命として受け入れてください。もし、この機会を逃したなら、再び永遠にこの機会はやって来ないでしょう。今は忙しいので、後で余裕ができたら、その時考えてみよう、という悪魔の声に惑わされないでください。

 「あなたの人生で、最も重要なことを、決して失わないでください」


あなたはかつてハリウッドからの最新の映画を見るために、何日も、何週間も、また何ヶ月でさえも時間を費やしたことはありませんか? 多くの時、それはテレビのコマーシャルで始まり、そして映画の告知、そして電車の中や街中の多くの広告となり、すぐにそれは友達との会話の一番の話題となります。最終的に、待ちに待った日は訪れ、その映画を見るときがきます。それは大体が期待通りではなく、あなたはがっかりしてしまいます。稀に素晴らしい映画と巡り会い、あなたは感動的な時間を持ち、それは今までで最高の映画だったと思うでしょう。あなたは幸せを感じますが、すぐに興奮は過ぎ去ってしまいます。これは普段通りの生活です、そして数ヶ月後、TSUTAYAでもっと評判のよい映画の貸し出しが開始されます。それで、もちろんのこと、あなたはそれを借りに行きます。そして、次の映画、また次の映画・・・と、このように、同じサイクルが続きます。これは身に覚えのある話しではないでしょうか? しかし、時々、思いの深みで次のように考えないでしょうか? 「わたしは残りの人生もこのように過ごしていくのだろうか? 一つの映画からまた次の映画へと生きていくのだろうか? 映画、スポーツ、飲み会、友達と出かけたり、遊んだり。すべては同じじゃないか。"何かさらに"ないの?」

  わたしたちはみなこのような経験を、わたしたちの生活の中でしてきました。あるいは、似たような経験を学校や職場でしてきましたし、友達や家族に対してもしてきました。それはいつも同じです。何かを心待ちにし、待ちきれないほどです。そしてそれが起こると、それは素晴らしく、すごいことなのですが、すぐに過ぎ去ってしまいます。そして生活自体はあなたが始めた時とそれほど変わりません。これらすべての事柄において、わたしたちはいつも何かが足りないと感じます。真の満たしを追い求めようとしても、いつも長くは続かず、必ずと言っていいほどわたしたちに虚しさの感覚が残ります。

 では、なぜわたしたちはこの様なのでしょうか? なぜわたしたちはこんなにも複雑なのでしょうか? その答えはわたしたちが造られた方法にあります。神は人が永遠の満足を切望するように造ったので、それ以外のものは何であれ完全に人を満足させることができないのです。神の言葉において、わたしたちは三つの区別された部分で造られたことがわかります。第一テサロニケ5章23節は、わたしたちは体、魂、そして霊を伴って造られたと告げています。

  わたしたちの体については、わたしたちはみなよく知っています。これは、わたしたちが見たり触れたりするために用いるわたしたちの一部分であり、物質の領域、すなわち、わたしたちが最も慣れている領域に接触するための部分です。わたしたちの体は満足を求めます。その満足は、食べたり、飲んだり、寝たり、運動したりすることによって、簡単に得ることができます。物質の領域においてわたしたちの必要を満たすことは、非常に簡単です。しかし、わたしたちの体の必要が満たされた時でさえ、内側では深い満足がないことに、やはり気付きます。ですから、わたしたちは、さらに深いもの、さらに意義のあるものを探し続けるのです。

  わたしたちの中の第二の部分は、魂と呼ばれます。わたしたちの体と比べて、魂はずっと深く、またさらに複雑です。それは精神的な領域の中にあります。わたしたちの魂はわたしたちの人格であり、わたしたちが誰であるかです。それには、理解し、感じ、選択する能力があります。わたしたちの中のこの部分もやはり満たされる必要があります。魂を満足させるために、わたしたちはお金や成功を追い求め、良い教育を得ようと努め、友達と時を過ごし、また長い人付き合いや良い家族生活を持つことを願います。しかし、これらすべてを持ったとしても、わたしたちの魂の満足感は内側の奥義的な虚しさを癒すことができません。

  この理由は、わたしたちは第三の部分を内側に持っているからです。この第三の部分は人の霊と呼ばれます。この部分は体の肉体的な領域を超え、魂のそれよりも深く、また異なっています。それは人の中の最も深く、最も隠された部分です。これが、有名なフランスの科学者ブレーズ・パスカルが “神の形をした真空”と呼んだものです。これはまたイスラエルの偉大な王であるソロモンが“人の心の中の永遠”と呼んだものです。人の霊とは、神が特別な意図と目的をもってわたしたちの内側に造られた部分です。その目的は、神ご自身を内容とし、また触れることです。この人生のどんなものも、映画も、お金も、友達も、家族も、愛でさえも、わたしたちの霊を満足させることはできません。わたしたちの霊が造られたので、神ご自身以外のどんなものもわたしたちの霊を満足させることはできません。そして、わたしたちの霊が神を内容とするのでなければ、わたしたちは決して真に、完全に満足することはありません。

 それでは、神はどのようにしてわたしたちの霊を満足させることができるのでしょうか? それは、彼が霊であって、わたしたちの霊の中に入り、満たすことができるからです。神は、イエス・キリストという名の人となられました。イエスは地上で完全な人の生活を生き、わたしたちの罪を取り除くために死なれ、埋葬され、そして死人の中から復活されました。彼が復活されたとき、彼は命を与える霊と成られました。彼はその霊として、今や人の霊の中に入る準備ができています。彼はその霊として、わたしたちの中に入り、内側深くにあるむなしさをキリストご自身で満たすことができます。他の何ものでもなく、キリストだけが、わたしたちの最も深い部分を満たすことができます。

  最も簡単に、そして最も直接的にキリストをあなたの霊の中に受け入れる方法は、主の名を呼ぶことです(ローマ10:13)。ただあなたの心を開き、内側深くから次のように呼んでみてください、「主イエスよ、主イエスよ、わたしはあなたを受け入れます。あなたは内側のむなしさを満たすことができることを、わたしは信じます。主イエスよ、わたしはあなたを信じます」。この単純な行為によって、神ご自身はキリストにあって、あなたの人の霊の中に入ってきて、内側の空虚さを満たすことができます。このときあなたは、最終的に"何かさらに"があることに気付きます。その"何かさらに"とは、実は神ご自身だったのです。

(Generation Magazine Vol.1 Iss1, The Third Part,
http://www.gogeneration.com/v1iss1/third.htm)


それは永遠に−It will be forever-

 "WHEN I FALL IN LOVE, / It will be forever, / Or I'll never fall in love; / In a restless world like this is, / Love has ended before it's begun."
「わたしが恋に落ちるなら、/ それは永遠に続いて欲しい/、あるいは、わたしは決して恋に落ちないでしょう;/ 愛は落ち着かない世界のよう、/ 愛が始まる前に、それは終了した。」

もしわたしが恋に落ちるのだったら
その恋は永遠に続いてほしい
でなければ、恋などしたくない
この目まぐるしい世の中では
恋が始める前に終わってしまう

 これは、ナット・キング・コールの永遠の言葉。それらは、人の愛の勇敢な高貴を、しかしそれと同時に、それの強烈な悲劇をも具体化しています。歴史を通じて、人類は、生命の最後の一呼吸まで生涯を費やす、病の中でも健康の中でも、愛しており、かつ愛してくれる誰かを1人を見つける高貴な意図を常に持っています。しかしながら、再三再四、愛の最初の火の熱烈な力は単なる強烈な残り火、および結局暗黙の寒冷に冷えて、ゆっくり次第に弱まるように見えます。時間と環境の疲労させる力に対して、愛はしばしば失敗しすぎるように見えます。

 わたしたちはみな、この悲劇の現実を理解するけれども、わたしたちは依然として完全な愛を果てしなく捜します。多くの時、長続きする関係を見つけるわたしたちの必死な努力は、薄弱で、その最終的には失敗、 失望または意気消沈した苦さにさえなります。わたしたちは内側でひどく傷つき、そして、永遠に愛をあきらめると自分自身に誓います。しかし、数週間、数ヶ月と過ぎると、わたしたちは全くの孤独では生き続けることは絶対にできないことに気が付きます。ですので、再びわたしたちはロマンスの乱闘に専念します。そして、今度は、「偶然に」運命の人を見つけることを望みます。あまりにしばしば、それはそうではありません、そして、わたしたちは痛みと悲しみに再び残されます。そして、わたしたちは、わたしたちが愛として知っているこの厳しい現実の中でわたしたちの人生を送ります。そして、それが本当に続くときが来ることを静かに夢見るのです。

  愛は、パラドックス(解決を持たない苦痛のミステリー)です。愛は心を刺激して行動を取らせるが、しかし心が傷ついているとき、それの慰めてくれません。それは生涯続くと約束してはくれますが、一瞬の間救ってくれるだけです。そして、わたしたちの経験において、一つの認識が常に真実に聞こえます。それは・・・みんなが愛することを望むけれども、ほとんどの場合、わたしたちの愛は足りなくなり、維持され得ません。おそらく、わたしたちは「人生の在るべき姿」あるいは、「うまくいく方法」のような現実を捨て去ったことでしょう。しかし、内側で深くで、わたしたちはこれが真実でないということを知っています。わたしたちの愛は時々空っぽで、弱くて、耐えることができないけれども、わたしたちは真の愛がさらなる何かであると内側で気付いています。真の愛は堅固で、重みがあり、変わることはなく、時間と空間において無制限です。それでも、わたしたちがどこかに存在すると思っている愛の実際は、再三再四わたしたちとは無縁のようです。

  愛の当惑に対する秘訣は、遙か前に起こった行動に起因します。それは神の言葉で深遠に語られたある行動です:「そして神は言われた、われわれのすがたに、われわれのかたちにしたがって人を造ろう。」(創世記1:26)。神の言葉は、わたしたちが彼のすがた(イメージ)とかたちの中で創造されたことを明らかにします。すなわち、わたしたちは神自身の特性で作られています。神は善いです。したがって、わたしたちは、本質的に善いことを望みます。神は義です。したがって、内側の何かが、わたしたちに義になるように合図します。また、恐らく、神が所有する最も根本的な属性は愛です。神は愛です、そして、彼は極みまで愛し通されます。それゆえ、人は愛する願望、能力、そして愛する生来の必要さえ持っています。人が愛するのは、愛される神によって人が設計されているからです。

  しかしながら、もし人がそのような複雑で特別の方法で作られたのならば、人の愛はなぜ、未だに欠けており、未だに失敗しているでしょうか?

  その答えはコロサイ人への手紙2章17節にある原則から見ることができます。それは「来たるべき事柄の影」のことを語っています。確かに、人には、愛する能力と願望があります。しかし、この強力な原動力さえ、壁に物体を映写するように、単に影にすぎません。それは形状、形、アニメーションおよびムーブメントを持っています。それは、非常に実際で、非常に本物で、非常に活発で、非常に生きているかのようです。しかし、愛の実体に触れるために来る時、状況が愛をテストし試みる時、愛は消えるように見えます。それは消えます。それは真の重みを持っていません。人の愛のこの影は見た目は全能で、全克服で、そしてどんな試みにも耐えることができそうです。しかし、現実においては、それは単にイメージ(壁への映写)にすぎません。

  人が影ならば、物質(影が由来するオブジェクト)は何でしょうか? 物質(実際)はキリストです。キリストは愛の真実で、本質的で、重みのある実際です。彼の愛は岩のようで、揺り動かされず、固定していて、安定していて、堅固です。彼は深く永遠の愛です、それは、決して衰えず、決して失敗しません。彼の愛する能力はすべての障壁を乗り越えて、すべての障害を超越します。そして現実の中で、キリストは愛するだけでなく、彼は愛そのものです(1ヨハネ4:16)。彼のパースン(彼の命の本質)は愛です。

  わたしたちは人生の中で、幾度となく愛の影を捕らえようとしたり、ピンで愛の影を留めようとしたり、努力あるいは夢によって愛の影に実体を与えようとします。しかし、結局、影は影でありそれ以上のなにものでもありません。わたしたちの本当の内なる必要はキリストです。わたしたちは、キリストにわたしたちの内側に来て頂き、またわたしたちの愛の影に実体を与えて頂く必要があります。わたしたちは、わたしたちの愛の能力(キャパシティー)が彼の本質と性質で満たされる必要があります。影の愛を使うとき、わたしたちはいつも失敗し、苦さと絶望へと落ちます。わたしたちが愛としてのキリストをわたしたちの中へと受け入れるとき、わたしたちの愛する能力は引き上げられ、増強され、豊富にされます。そして、愛に実体を与えまた無尽蔵にします。

  今日、このキリストはわたしたちを彼の神聖な愛で満たすのに利用可能です。彼は人となり、わたしたちの罪からわたしたちを救うために十字架上で死なれました。彼は復活し、わたしたちの中へと入るために、命を与える霊と成なれました。わたしたちがする必要のあるただ一つのことは彼を入れさせることです。わたしたちは単に心を開き、純粋な方法で祈る必要があります:「主イエスよ、わたしはあなたを信じます。わたしは、わたしの愛が影にすぎないこと信じます。しかし、あなたの愛は本物です。わたしの命またわたしの愛としてわたしに入って来てください。わたしのすべての失敗する努力からわたしを救って、わたしの愛する能力になってください。」あなたがこの単純な方法で祈る時、無制限で無限の神はあなたを彼の神聖な愛(ローマ人5:5)で満たすために来られるでしょう。あなたは、愛自体の実際また真の実体を所有し経験するでしょう。それは実は人なるイエス・キリストです。

出所:Generation Magazine Vol.1 Iss1, It will be forever, http://www.gogeneration.com/v1iss2/forever.htm



  彼らは彼を道の横に半殺しの状態で残しました。打ちたたかれ、衣服をはぎ取られ、彼は価値のあるものすべてを奪われました。彼は、まだ生きていましたが、彼の今の状態では長く生きのびることができませんでした。また、彼は自分を救える状態でもありませんでした。彼が生きるか死ぬかは、今その踏みならされた道を下って行く他の旅行者の思いやりに専らかかっていました。しかし、一体誰が今、嫌々であれ立ち止まり、道端の悲惨な山に放置された人の傷付いた体を顧みるでしょうか?
  偶然にも、祭司が同じ道を下って旅行していました。彼はそこでその人が横たわっているのを見た時、助けることなく、彼は道の反対側を通り過ぎました。少したった後、今度は、第二の旅行者が来ました。レビ人です。彼は再び地位のある、重要な人でした。しかし、先ほどの祭司のように、彼は助けを与えるために少しも立ち止まりませんでした。助けるのに気が進まず、することもできずに、彼らが自分の道を行っていたので、彼も祭司も死にかけている人に対する思いやりで感動されることはできませんでした。これらの宗教の人(援助の最も有望な源)は最も大きな必要のある時に彼を救うことができませんでした。
  そこで、道の横に、その人は横たわりました。彼の状況は絶望的でした。彼の血管から命が漏れつつあって、彼の混乱した思いは、彼を救うことができる人はいるのだろうかと思いました。

本当の必要
  私たちは大抵最も絶望的な状況において、自分の本当の必要がどれほどなのかを認識します。絶望の度合いは各個人で違うかもしれませんが、結局、私たちは、私たちがこれ以上行くことができないという点に達した時がいつなのかはわかります。そのような状況で、私たちは自分の必要を認めて、私たちが求める助けを見つけなければならない、という衝動に駆られます。疲れ果て、不満足で、そして望みがなくなる時、私たちは、はるか昔から人類が感じていたのと同じように、「私たちは神を必要とすること」を認めざるを得ません。それは、私たちの境遇がドラマチックであってもなくても、私たちは誰しもが人として神を知り経験したいという内なる必要を持っているという認識にやって来ました(もしくは、やがて来るでしょう)。私たちと私たちの先祖がこの深遠な認識にたどり着くための過去の何千何万もの道のりは違うにせよ、すべての人間は、例外なく、その必要を神へと向けたのでした。

箱の外側
  宗教は恐らく、神を見つける問題への、私たち人が生み出した最も包括的な解決策です。人類の夜明けの太古の起源から、最も高度化した現在の時に至るまで、神を見つけて経験するための人類の究極的な試みを宗教は具体化しています。考古学および人類学は両方とも、時代を通じて、神への私たちの必要性を文書で証明します。探究の遺物は多くあります。何世代もの探求者によって後世に残された残骸は私たちの景観分析をかき乱し、世界中の博物館を満たしています。
荒廃した寺院、崩れかけた偶像、寂しい大聖堂は、私たちが神に対する渇望を緩和しようとして犠牲にした時間、エネルギー、および富に対する、物寂しい証拠になっています。

  しかし、宗教は失敗しました。それはまるで、私たちが宗教の中で神を探せば探すほど、私たちはよりむなしさを感じるかのようです。それはまた、私たちはかつての状態よりもさらに神から遠く離れてしまったかのようです。神が本当に満たすのであれば、なぜ宗教はそれができないのでしょうか?

  これに答えるために、私たちは、宗教についての明瞭な理解を必要とします。「宗教」と言うとき、私たちは、「宗教的な態度、信念、および習慣の個人的なセットか制度化されたシステム」を意味します。しかしながら、神はシステムではありません。また、彼はどんな信条あるいは法典にも制限されることができません。彼は"宗教"の箱の外にいます。しかしながらほとんどすべての人は、宗教的であってもなくても、神ご自身と信条と伝統を同一視しています。宗教と神が分離できなくて、同一で、一つのもの、同じものであるとさえと思われる時に生じる混乱を人は想像することができます。しかし、誰の思いがこの誤った論理で曇らされていないでしょうか?
この間違った方程式は、誰でも一方を他方から切り離すことが現在ほとんど不可能な程までに根強くなってしまいました。

  私たちが神と宗教の間に作りだした偽りの相関性は、実際に私たちが生活を送る方法に、深刻な悪影響を及ぼしています。一方では、この混乱によって、ある人々は彼らの宗教にあまりにも夢中になってしまったので、宗教自体が彼らの愛情の対象になり、悲しいことに、その間ずっと、彼らはそれが彼らの崇めている神であると思っています。他方では、特に、私たちの世代の若者は、私たち自身が一方の宗教を受け入れるようにはしむけることができないので、他方の神をも放棄します。この誤った相関性の源が何であれ、結果は同じです。それは、私たちを神にもたらすと思われるまさにそれによって、私たちが神から遠ざけられてしまう、ということです。

むなしい約束
  ナザレのイエスが宗教のことを話した時、彼はそれほど親切に語られませんでした。彼が語られた打ちたたかれた人のたとえ話は、宗教的な群衆に対してはっきりと向けられ、宗教の真の性質を暴露することを意図されていました。第一世紀のパレスチナにおける支配的な宗教はユダヤ教でした。しかしながら、ユダヤ宗教だけがこの指摘された物語の最後を受け取ったのではありません。もしイエスがこれらの言葉を今日語ったのならば、彼は今日の私たちの時代の主要な宗教に対してもちょうど同じように方向を向けられたことでしょう。

  たとえ話によれば、強盗の一団は旅行者に襲いかかり、彼からはぎ取り、打ち叩き、半殺しにしました。このたとえ話の聞くところおよび文脈から判断すると、強盗どもが宗教およびその律法を重んじる教師を代表するということを疑う余地はありません。これは、キリストの他の箇所での言葉によって強く証明されます。以前、宗教のリーダーの集団を指すときに、主は彼らを「盗人であり強盗」として言及しました。この思想をさらに発展させて、誤解に余地を与えませんでした。彼は、「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、破壊したりするためにほかならない」また、「偽善者である聖書学者とパリサイ人よ、あなたがたは災いである!」と宣言しました。彼は別の時には「あなたがたは白く塗られた墓に似ている.それは外側は美しく見えるが、内側は死人の骨やあらゆる不潔なもので満ちている。…あなたがたの内側は偽善や不法で満ちている。」、と彼らに言いました。

  このように打ちたたかれて半殺しにされた人に加えて、キリストはたとえ話の中へ祭司とレビを導入しました。祭司の仕事は人を神にもたらすことでした。また、レビは、人々が神を礼拝するのを助けることになっていました。しかし、これらの人が死にかけている旅行者に接近した時、彼らはその光景にうんざりし急いで立ち去りました。ほとんど同じ方法で、宗教は私たちが非常に必死に必要とする助けを与えません。死にかけている人を助ようとしないこれらの宗教的な2人のリーダーの無言の不本意および無力は、宗教の真実の性質に関して、言葉以上に大きな声で語っています。

  宗教は偽善で満ちているだけでなく、それはさらに人を欺き、死んだような状態であることは、疑いの余地がありません。宗教は熱烈な探求者を殺します。宗教のシステムおよびそれらの律法尊重主義の教師の多くはそれらの追随者に打ち叩き、殺す影響力を持ちます。キリストの言葉だけがこれを明らかにしているだけでなく、歴史の中の例証、私たちの経験、および私たちのまわりのものも明らかにしています。どれほどの者達が、神を探求していた際に、宗教の規則、儀式および制限によって身動きをとれなくされたことでしょうか?
どれだけの者達が、神を知りたいと真に切望していた際に、自分自身がほとんど神を知らなそうな宗教のリーダーの保護の下で教義や教理を学ぶだけですべてが終わってしまったことでしょうか?
  どれほどの者達が、多くの宗教の規則を維持することには成功しているにもかかわらず、内側で死んでいるように感じていることでしょう? この反対の主張にもかかわらず、宗教が成し得たことは神の探求者に伝統、感情および哲学の貧弱な料理を配ることだけで、その間、神ご自身の生ける臨在を拒絶していたのです。

宗教の失敗
  そのような絵を、キリストは当時の宗教家の前で彼の言葉をもって描きました。見事な正確さをもって、彼は宗教の真の性質および根本的な失敗を描写しました。キリストが啓示されたように、宗教には神が欠けています。それは私たちを神の生ける経験へともたらすことができず、事実、神から私たちを引き離します。宗教は神を求める私たちの内なる必要を満たすために発明されましたが、それはその使命に失敗しました。私たちを神に連れて来るどころか、宗教は私たちを横目で見ながら、それが道の反対側の私たちの横を通り過ぎて行きました。

良きサマリア人
  たとえ話を結論づけ、死にゆく人の運命を私たちに知らせるにあたって、キリストは瀕死状態にいる旅行者を用いられました。「ところが、旅をしていたあるサマリヤ人が、彼の所に来ました.そして彼を見ると、深くあわれみ、近づいて来て、その傷に油とぶどう酒を注いで包帯をしました。そして自分の家畜に乗せて、宿屋に運び、彼の世話をしました。翌日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言われました、『彼の世話をしてください.どんなに余計にかかっても、私が戻った時に払います』。」
  親切なサマリア人として自分自身をたとえ話へ紹介することによって、イエス・キリストは、私たちを神の真実で生ける経験へ連れて来ることができるユニークな方は実に彼ご自身であって、宗教ではない、ということを啓示されました。

  たとえ話の中のサマリア人のように、イエス・キリストは、私たち(道の横の傷つけられ、死にそうな者達)を救う旅行をされました。失われたものを捜す彼の旅行において、 キリストは祭司とレビ人によって代表された宗教ができなかったことを達成されました。すなたち、それは私たちが横たわっていた場所まで下って来て、私たちを神にもたらすことです。以前は、時間と空間の制限の外に存在しておりましたが、神は永遠から進み出られ、時間の中へと入られ、イエスと呼ばれる人間になりました。イエス・キリストは神のまさに定義、説明および表現でした。というのは、彼は私たちと共におられる神自身であられるからです。

  キリストの生活は2つの方法で特徴づけることができます。第一に、彼の生活は、神を人にもたらし、人を神にもたらした生活でした。第二に、彼の生活は宗教(神と人を分離する障害)に対する継続的な戦いでした。キリストが行ったすべてのことは神と人を一つにもたらしました。彼は貧しい者には良き知らせを宣言し、捕らわれ人には解放を、盲人には視力を回復し、圧迫された人々には自由を与えました。キリストは真の良きサマリア人でした。人に対するあわれみおよび優しさで満たされた人として、彼は神を人にもたらしました。キリストが人々のところに来た時、神は彼らに来ました。人々が彼のところに来た時、彼らは神に来ました。イエス・キリストは、単に、彼が誰であられたかによって、宗教が行うと主張しかできなかったことをやってのけました。

  だけれども、この人は宗教によって軽蔑されました。彼が病人および足の不自由な者を聖なる日に癒した時、宗教は儀式の律法を破ったと彼を罪定めしました。彼が悪魔を追い出した時、宗教は彼が悪魔と同盟していると言って彼を非難しました。彼が人々の罪を赦した時、宗教は神に対する冒とくだと言って彼を非難しました。 キリストが神を人にもたらすことにより人の基本的な必要を満たした時、宗教の指導者達は彼を止めるために力の限りを尽くしてあらゆることを行いました。最後に、宗教の中の人々がもはや彼を許容することができなくなった時、彼らは彼を殺しました。それが木の十字架に彼を釘づけにした時、キリスト(この人は人のところに来られた神だった)は宗教によって殺害されました。

  キリストが彼の内にあった私たちに対するあわれみの計り知れない深さを完全に表示したのは彼の十字架刑においてでした。そこで、十字架上で、キリストは私たちを神にもたらすために、私たちの罪のために苦難を受けられました。そこで、まさに宗教によって嘲笑されていたその時、彼は自分自身をへりくだらさせて、十字架の恥ずべき死にまでさえ従順になられました。そこで、宗教が軽蔑したお方は、宗教が虐待し無視した人に対する深い同情で感動されました。そこで、私たちに対するキリストの深い内側の愛情は、人を救う愛の1つのはばかることのない行為において急増しました。そして、彼の死と埋葬、そして続く、死人からの復活を通して、彼は命を与える霊となりました。 また、旅行者の傷に包帯したよきサマリア人がそれらの傷の上に油およびぶどう酒を注いだように、キリスト彼自身が、命を与える霊として私たちのところに来て、私たちに彼の神聖で、無制限の命を与えてくださいました。

キリスト対宗教
  私たちすべて人の内側には、神を知り経験することを願う生来の、また弱まることのない切望があります。私たちは無数の宗教の伝統を開発しましたが、それらのうちの1つも彼を求める私たちの心の要求に答えることができません。なぜなら、宗教には、神に関する教えは満ちているかもしれませんが、彼の生ける臨在が欠けています。

  イエス・キリストは永遠に存在し、人間の宗教とは無関係に存在する神です。彼は宗教を超越しており、彼は宗教がすると主張しかできないことを行うことができます。すなわち、神を人にもたらし、人を神にもたらすことです。キリストは生きている神の具体化で、死んだ宗教とは全く関係がありません。キリストは、寄留している救い主(路傍で私たちを見つけて、宗教ができないものを私たちに与えてくれる、実際で生きているお方)として私たちのところに来られました。宗教は私たちを無慈悲に扱っていますが、キリストはあわれみに満ちています。宗教は私たちから神を知り経験することを奪いますが、キリストは私たちに来られた神ご自身です。宗教は私たちを半殺しの状態で置き去りにしますが、キリストは命を与える霊であり、私たちを彼の創造されていない、神聖な命で満たされます。私たちのよきサマリア人としてのキリストに開くことによって、私たちは神ご自身を受け入れます。また、彼を受け入れることによって、私たちの最も深くまた最も永続的な要求、すなわち「神を求める要求」はついに満たされるのです。

  神を望むのは宗教ではありません。神を望むのは人間です。もしあなたが、彼の真実で生ける経験の中へと入りたければ、方法は非常にシンプルです。しなければならないことは、彼に開き、以下のように祈ることです:

「おー主イエスよ、あなたを愛しています! 私の罪のために死ぬために、あなたが人となられたことを感謝します。復活において、あなたは命を与える霊となられたことを感謝します。主イエスよ、私に入って来て下さい。宗教から私を自由にして、真の命と自由で私を満たしてください。あなたのすべての完全な経験の中へと私をもたらしてください。主イエスよ、私を救ってくれたことに感謝します

 

 一年の終わりが近づき新しい年の事を考える始める頃、町中ではたくさんのイルミネーションが輝き、多くの通りが華やかな装飾で満ちます。

 これは、言わずとしれたクリスマスの事を言っているのですが、実は、クリスマスという言葉は聖書には見いだせないのです。

 クリスマスと言ったらクリスチャンにとってはとても大きなイベントであって、なぜそんなことを言うのかと不思議に思うかも知れません。



 クリスマスが今の形のようになったのは、次のような歴史の過程があります。

 皇帝ネロによって始められたキリスト教に対する迫害は、歴代の皇帝たちによって断続的に繰り返され、継続されました。

 AD313年に「ミラノ勅令」が発布されて、キリスト教はやっと公認されました。

 コンスタンチヌス大帝はAD312年にマクセンチウスと帝位をかけて戦い、ローマ近郊でこれを破りました。

 伝説によると、コンスタンチヌスはその戦いの前夜、夢の中で十字架の旗印を見、「この旗印で勝て」という声を聴きました。

 彼はこれと同じ旗をつくらせ、それを押し立てて戦いに臨み勝利をおさめました。

 コンスタンチヌス大帝(コンスタンチンとも言う)はクリスチャンになり、クリスチャン優遇政策をとり、クリスチャンになりさえすれば特別市民権が与えられるようにしました。

 それゆえ、主イエスを真に信じていないローマ市民もこぞって洗礼を受けるようになりました。

 その人たちは、それまで太陽神教を信じており、12月25日を太陽神の誕生日として祝っていました。



 コンスタンチヌス大帝は真のクリスチャンでない人たちを喜ばせるために、太陽神の誕生日を主イエスの誕生日に変えました。

 それは、決して神を喜ばせることができないだけでなく、神に対する一種の冒涜でもあります。

 聖書では毎主日(日曜日)、主を記念するように言われています。

 一年に一回の誕生日を祝うのではなく、年に52回、主の誕生、主の生涯、主の十字架上での死と主の復活、昇天、再臨の約束を記念するのが聖書の教えです。

 宗教徒たちは毎主日に記念するのが面倒なために、年一回に変えました。

 そして、商売人が商売のために今日のクリスマスのようにしたのです。

 クリスマス、クリスマスイブ、クリスマスカード、クリスマスキャロル、クリスマスケーキ、クリスマスストッキング、クリスマスツリー、クリスマスデコレーション、クリスマスパーティー、クリスマスプレゼント、クリスマスローズ、クリスマスダンス等は、みな堕落したキリスト教と商売人の発明によるものです。



 さらに12月25日がイエスの誕生日ではないことの根拠となる聖書の箇所がルカによる福音書第2章8節にあります。

 この節では、「さて、この地方で羊飼いたちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた」とあります。

 12月25日は真冬であり、ユダヤの地は寒いので、羊飼いたちが「夜、野宿する」ことはありません。

 それゆえ、主イエスが12月25日にお生まれになることはありません。

 それは迷信です。

 特に偶像礼拝をしていた太陽神の誕生日を主イエスの誕生日にしたことは、迷信による冒涜行為にとらえられてもおかしくないのです。



 このように、現在は太陽神の誕生日が歴史の流れの中で主イエスの誕生日としては考えられるようになったのですが、聖書ではそのように言っていません。

 けれど、クリスチャンは主イエスの誕生を本当に喜びとします。

 ここで強調したいことは、クリスチャンならば、年に一回、12月25日だけをイエスの誕生日として記念するのではなく、毎週の主日(日曜日)に記念することが大切であるということです。

 また、毎日でもさえも彼の誕生を喜び、賛美するべきなのです。



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